JAPAN JUNIOR ORCHESTRA
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ぐんまジュニアオーケストラ
音楽監督 南紳一

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NPO日本少年少女オーケストラ協会NEWS 2022年12月号   通算459号      

                http://k-onebiz.com/gjo/gjo_index.html
 新事務局:群馬県高崎市昭和町3-1 シャルマンコーポ高崎303        



12月12日バンコクから3年ぶりに来日した子供オーケストラの指導者達と新宿で今後の話し合いをしました。 特に来春の香港、中国公演が1年延期に伴いバンコクで4月2日(日)の調整で、希望者の演奏会の可能性も メインは、2025年の大阪万博のタイナショナルデーでのコンサートです。3年前からの準備が必要です。


 12月17日(土)ぐんまジュニア合奏練習日に田尻先生が久しぶりに登場しました。20、30年前に小学生 だった卒業生達が5,6人参加してくれて嬉しかったです。感謝。 白鳥の湖、スラブ行進曲、バイオリン協奏曲はりいのちゃんがソロを弾いてくれました。 来年の8月を目指して1歩1歩がんばりましょう。先ずは練習に参加しましょう。   


ぐんまジュニアの弦楽パートの冬休み特別分奏練習について:

1月4日(水)第1バイオリン 5日(木)第2バイオリン 7日(土)チェロ
会場;高崎中央公民館舞踏室(3階) それぞれ18時~20時
参加費:1000円 (練習参加保護者は半額)
指導者:南先生・りいの先生・大竹先生など

今後の予定:

1月12日~2月9日 マナブ先生(インド人・チェロ・英国グラスゴー音大卒)来日
1月15日(日) 2時から集会ホール ぐんまジュニア練習(児玉先生)
2月  5日(日) 玉村音楽祭 セントラルJr&レオクラブ有志
2月12日(日) 2時から集会ホール ぐんまジュニア練習(児玉先生)
3月11日(土) さいたまジュニア演奏会&体験会(プラザノース)
3月18日19日 レオクラブ東北公演
3月21日(祝) リハーサル(高崎市民プラザ・ソシアス)高崎イオン近く
3月22日(水) 18時から 特別演奏会(高崎市文化会館)                                                       

   



3月24日リハーサル
3月25日愛媛県青少年オーケストラ演奏会
   終業式の関係もありますので、参加希望者は飛行機で
   曲目:白鳥の湖、新世界(フイナーレ)、セントポール他

4月1日(土)リハーサル
4月2日(日)バンコク演奏会(未定)

4月15日(土)333D地区ライオンズ年次大会
   伊勢崎文化センター
4月16日(日)ぐんまジュニア練習(未定)
5月14日(日)ぐんまジュニア練習

8月1日~3日 初級中級合宿(はまゆう山荘)
8月8日~10日 中級上級合宿(はまゆう山荘)
8月10日(木)40周年演奏会(高崎芸術劇場) 

2024年春休み 香港デイズニーランド・珠海(中国)公演
2025年 大阪万博公演



以下のページは、来年の40周年を記念して執筆中の「ジュニアオーケストラの夜明け」(仮称)です 今後ニュースに掲載して行こうと考えています。活字に弱い方は飛ばしてください。 

プロローグ “運命の群馬県へ派遣される” 1980年~

  私はウィーンの留学から帰国して、留学で知り合った先輩からの紹介で楽器製造会社のY社で東京周辺の 学校オーケストラや吹奏楽部などの指導に行き、日本の音楽教育の現場に足を踏み入れました、当時は日本の高度成長期でもあり、コンクール至上主義の時代でした。指導の中心は音楽を教えると言うよりは、楽器の技術を如何に早く教えるかが課題であり、楽譜の読めない子供たちにスパルタ式で吹奏楽コンクールの賞を取る為に体育会系の部活顔負けの指導方法が中心で、ウィーンの音楽を体験して来た自分には「音楽とは何か」を問いかける毎日であったように記憶します。

  転機が訪れたのは、そんな毎日から解放されたいと願っていた自分にY社から、国体の開催地である群馬県への移動の話でした。二つ返事で北関東支店の高崎市へ昭和56年(1981年)に赴任しました。高崎市と言えば、当時の音楽関係者ならだれでもが知っていた映画、「ここに泉あり」で群馬交響楽団の創設物語で した。映画の中では実際に「赤とんぼ」の作曲で有名な指揮者の山田耕作先生が特別出演されて、ベートーベンの第九交響曲も指揮をされています。そんな期待で高崎市に赴任した私でしたが、東京とウィーンの街しか知らない私には山々に囲まれた日本の地方都市の現実に言葉を失うばかりでした。

そして、赴任してまもなく息をつく間もなく連日、北関東の小中高校への音楽指導が始まりました。群馬県、栃木県、茨木県、長野県そして埼玉北部など昭和58年(1983年)の群馬国体開催までの2年間で1万人近くの青少年達へ楽器を指導することになりました。そんなハードな毎日でしたが、毎週月曜日は定休日 となり群馬県に赴任した講師のメンバーで、情報交換と親睦を兼ねて北関東一円のゴルフ場に集まりました。 そのころには私も運転免許証を取得して、地元スバルの展示車を入手して日曜日の学校での指導が終わると指定されたゴルフ場に直接出かけての生活に明け暮れていました。日本社会はバブルが始まっていました。

  そんなバブル時代に太田市で結婚して、1983年1月ウィーンでルームメイトであった指揮者の尾高忠明氏と東京フィルの太田市公演でウィーン以来約10年ぶりに再会をしました。「南君の実家は東京だったよね。群馬交響楽団にでも就職したの?」そんな会話から始まって、群馬県の音楽事情を話すと「それじゃ、南君がオーケストラを作ちゃえばいいんじゃないの」と彼は冗談で言いました。その場には東京フィルの団員で来ていた横川晴児君(クラリネット、後にNHK交響楽団)にもパリ以来の再会をして、急にウィーンで私は何を、何の為に勉強して来たかを自問する形となり、その後すぐに太田市で子供オーケストラを設立する構想を地元の関係者に話しましたが、「文化不毛の地」と自虐的に言っている地元民にあきれられました。まさに夢物語。

  太田市は戦前人口わずか1万人の田舎町で、戦時中に東洋最大の戦闘機製作の「中島飛行機製作所」(戦後は富士重工業)を国策として、全国から30万人ほど技術者や労働者を寄せ集めた街で、確かに文化などは古典芸能留まりで代表的な文化と言えば八木節ぐらいでした。バイオリンなど見たことも無い輩にオーケストラとは何ぞや?「猫に小判」状態でありました。群馬交響楽団のおも影は太田市、桐生市など東毛地区では、極一部の上流階級の家庭の信仰的な存在であったようです。そんな中でしたので、当時の市長に直談判に伺ったところ「邪魔はしないから自分の力でやりなさい」の一言でした。日本の政治家はその程度だと見切りをつけて、2か月ほどの準備期間で設立に駆けつけました。20年後にアジアの各地で同じ体験をすることになりましたが、幸いなことに、この時の経験が活かされてアジアの各地でも子供オーケストラを設立する時に変な自信が持てました。また無いところに作る喜びのアドレナリンがエネルギーとなり、想像以上に子供オーケストラの輪がアジア全体に広がっていると実感します。ネパール、インド、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナム、バングラデシュ、インドネシア、フィリピン、シンガポール、台北、香港、中国、韓国、ウズベキスタン、キリギス。


第1章 “第2のここに泉あり” 1983年~

  1983年は群馬県で「第38回国民体育大会」が開催された年でしたが、4月1日には東京デイズニーランドが開園したばかりで、世の中は明るいニュースにあふれていました。私は地元のバイオリン教室を営んでいた2人のバイオリンの先生とチェロの先生に教室の生徒をジュニアオーケストラに参加せてもらうように説得して、弦楽器の小学生メンバーを集めました。また私はTBSコンクールの指導に何度か出かけた太田市立休泊小学校の器楽合奏部の子供たちから管打楽器を、木管楽器は私と妻の教室から希望者を募って、54人フル編成の「太田ジュニアフィルハーモニーオーケストラ」をスタートしました。練習会場は熱心な休泊小学校の音楽教諭N先生と校長先生の計らいで、学校を練習会場として特別に開放して頂きました。

  太田市の東の端に位置する田園に囲まれた学校の音楽室には昭和20年代の楽器がゴロゴロしていて現役で子供たちが使用しており、器楽部のメンバーは60人ほどもいました。群馬県内の多くの小学校を指導で訪れていた私は楽器の種類と数の多さに非常に驚きました。その上驚いたのは音楽室の窓を開けると農家の牛小屋に何頭もの牛が飼われていて、子供たちが音を出すたびに「モーゥ、モーゥ」と鳴き声が聞こえる事でした。東京育ちの私には、それまで本物の牛はヨーロッパでしか見たことも無く、(動物園には牛はいない?)その匂いにもビックリしましたが、ここの生徒たちは全く匂いや鳴き声には慣れたものでした。

  後年地元の校長経験者から話を伺い知った事ですが、この小学校は戦後に群馬県から「同和問題特別指定校」として、音楽教育によるモデル校の指定を受けて毎年音楽教育に熱心な先生が派遣され、毎年楽器の予算が県から補充されたそうです。昭和20年代からTBSコンクールの群馬県代表として毎年全国大会に出場していた常連校だったそうです。私が最初に器楽部の指導に出向いた時、N先生から「どうしても合奏の音程が合わない」と聞かされて、楽器を見ると昭和40年代前半の「440」ピッチの鍵盤楽器やアコーデオンなどと昭和50年代以後の「442」ピッチの同種類楽器が一緒に使用されていました。私は「440」ピッチの楽器はすぐに廃棄するようにお願いしましたが、「私の一存では高価な楽器を廃棄する事は出来ない」と断られた記憶があります。ここに日本の音楽教育上の歴史的転換期がありました。世界ではアメリカ、オーストラリアなどでは「440」ピッチを現在でも使用していますが、ヨーロッパでは「442」のピッチを使用しています。その理由は合理的(計算で割り切れる)なアメリカ社会と音の響きや美しさを大切にして伝統を守っているヨーロッパの音楽の違いの様です。日本でも未だに時報や電話の受話器を上げた時の「ツー」と言う音程は「440」を使用しています。オーケストラの始まりはこの「ラの音」です。

  オーケストラの練習が始まって2か月もたたないうちに、バイオリンやチェロ教室の先生方から指導方法の違いによる意見の相違と言う形で、先生方の弦楽だけの団体と私の管打楽器のグループに分離してしまいました。それもそのはずで営業としている教室の先生にしてみたら「楽しむ音楽」は困ると言う話です。 そこで、私は新たにバイオリンを希望する子供たちを募集して、音大に通う男子学生に指導をお願いしました。彼は毎週日曜日にオートバイで東京から指導に来ていましたが、だんだん遅刻するようになり、欠席も あったので私が長年培った学校での指導方法をバイオリンに応用した所、子供たちはとても興味を示してくれて上達も早くなりました。しかし一番の問題は教材でした。市販されている教本は全てプロになる為の個人練習用のもので、日本の弦楽器が一般に広まらない原因が理解できると共に、新しい教材の必要性を強く感じて後年の「ミナミメソード」開発にたどり着きます。しかしこの当時は弦楽器を指導した経験が無い為に、私自身もビオラを購入して一緒になって練習をしました。偉大な作曲家たちがこぞってビオラを愛好していた事を実感したのもこの頃です。弦楽器教室のグループは指導者の意見の違いからその年に解散されたそうです。


「ジュニアオーケストラの夜明け」(仮称) PDFはこちら  



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