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音楽監督 南紳一

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NPO日本少年少女オーケストラ協会NEWS 2023年4月号   通算463号      

                http://k-onebiz.com/gjo/gjo_index.html
 新事務局:群馬県高崎市昭和町3-1 シャルマンコーポ高崎303        



 3月25日(土)愛媛県青少年オーケストラ第4回コンサート(新居浜市市民文化センター)



新居浜Jr.今治Jr.松山Jr.そして地元の新居浜西高等学校吹奏楽部も共演してくれました。

カンボジアで長年地雷撤去をされている高山さんの縁で4年前に始まった愛媛県のジュニアオーケストラ 活動ですが、指導者の千夏ちゃん(Gジュニア卒業生)の熱意で成長しています。高山さんも日本滞在中で 応援に駆けつけてくれました。数年ぶりの再会でしたが、高山さんの希望どうりの成長でとても喜んでくれました。群馬県と北海道から応援の皆さんが駆けつけて、とても盛り上がりました。  
                


第7章     “群馬県内各地に広がる輪”     1992年~

  当時のオーケストラの人数は100人を超える大所帯となっていました。県内だけでなく栃木県の足利市や 埼玉県の熊谷市からも子供たちが参加していました。その中で特に太田女子高校の教諭だった先生の娘さんが桐生市から参加していて、「桐生市から沢山の希望者がいるので桐生で支部を作って欲しい」と頼まれました。それがきっかけとなって、その後参加者の保護者からの希望に合わせて新田町(現太田市)、大泉町、小山市(栃木県)、下野市(栃木県)、境町(現伊勢崎市)、伊勢崎市、月夜野町、前橋市、高崎市、安中市、藤岡市(現ぐんまセントラ・玉村町)、松井田町(現安中市)へと広がっていきました。また、県内の音楽家たちも刺激を受けて館林市、渋川市、富岡市などにも設立をされたようですが、やはり単独での団体継続は難しいようです。こうして群馬県は全国一のジュニアオーケストラ県として注目され始めました。

  1996年には、群馬県芸術文化振興課の計らいで、文部省からモデル事業として1億円の予算をもらって、私の希望していた「太田市芸術学校」が設立されました。S市長からは散々、市役所に入って芸術学校を取り仕切れと誘われましたが、組織での活動が苦手の私は太田市以外のジュニアオーケストラ普及を目指しました。その結果、高崎市に活動の中心を移して1997年に「高崎市100周年記念ジュニアオーケストラ」を誕生させました。残念ながら同じ年に前橋市に私が命名した「前橋朔太郎記念ジュニアオーケストラ」は、指導者の内紛によって、私が指導や運営に一度も関わる事もなく指導者たちの内紛により消滅してしまい、再建を依頼されて「前橋ジュニアオーケストラ」が誕生したのはかなり後になってからです。

  この頃から、私の日常生活は「月火水木金土土日日」の週9日制の指導に明け暮れながら、全国フェステイバル、国民文化祭などに生徒をワゴン車に乗せて全国を走りめぐっていました。最多では土日で5回の演奏会をそれぞれ違う市町村で開催したりして、「どこでもドア」が欲しいと本気で考えていました。毎月のガソリン代が7,8万円もかかってしまい、ついに愛車のベンツ500Eを手放しました。    


第8章    “アジアに子供オーケストラを”    ① ネパール編 1997年~

  1997年からネパールでのバイオリン指導が始まり、20年間に計18回もカトマンズに私は指導に出かけることになりました。今考えるとそこには大きな見えない運命の力が働いていたとしか思えません。きっかけは前の年に団の役員が太田市内の接骨病院で順番待ちをしている時に、待合室でネパール人の柔道で骨折している男性に声を掛けたことから始まりました。彼はネパール皇室一族で、日本の文化交流で来日して柔道で骨折してしまったそうで、役員が私たちの演奏会に彼を連れて来たところ、とても興味を示して「ネパールの女王に会わせるからぜひネパールにバイオリンを持って来てください」と言われました。私は冗談だと本気にしませんでしたが、年配の役員方は「お釈迦様の生まれたネパールには死ぬまでには行きたいし、女王様に会えるなら行こう」と役員たちで話がまとまり、私の旅行費用を出すから通訳を兼ねて一緒に行って欲しいと念願されてしまいました。私は団の運営でお世話になっている方々ですので断れず翌月にはカトマンズに出かけました。
  後にネパール王国は、国王一家が惨殺されて王国でなくなってしまうのですが、1997年当時の王宮は厳重な警備の元で、私たちは控室で緊張しながら1時間も待たされたあげく、女王付きの執事の方が現れて急用で女王はインドに昨日から出かけてしまい申し訳ないと誤りに来ました。しかしこの夜からネパールの上流階級の子供たちが着飾って集まり、バイオリンの指導が始まりました。希望者が多くて驚きましたが、後でわかって来た事は、日本人と交流する事で利益を得ようとするネパール人たちの考えだと。子供たちはとても純粋で、興味深々であり、音楽や舞踊には民族音楽で慣れていて、中でも一番年長の女の子でプリヤちゃん(当時15歳)は、お母さんが日本で仕事をされていることもあり、その後群馬県立沼田女子高校へ留学しました。
  2000年4月に私たちはカーネギーホール公演を終えて帰国後すぐに、何名かの指導者や役員と共にネパールに出かけました。そこで正式に現地の私立「LRIインターナショナル学校」の生徒を中心に簡単な音感テストをして、30名ほどの「ヒマラヤ青少年オーケストラ」を設立して、音楽の基礎指導から初め多くの楽器や教材の支援を始めました。この支援の為のお金は日本の役員や団員達からも寄付金を集め、私も私財をつぎ込むことになりました。インドにはインド音楽の韻律(音階)があり、4000年の歴史があるそうです。これはインドの神様の為の音階だそうで、西洋音楽のドレミはなく、基本的に耳で覚えて演奏するスタイルです。

  日本からは何度となく沢山の指導者や生徒を連れて行き、帰国時には皆さんカルチャーショックを受けて、如何に日本が住みよい国かを実感したと口をそろえて言います。当時のネパールの公務員の給料は月に3000円と聞いて、とても驚きました。1日1ドル(100円)だそうですので、やたらに物乞いの子供たちに1ドルを渡しては教育上良くないと現地で働いている日本人の方から言われました。やがてカトマンズの私立学校協会6校からの依頼で、音楽教師に音楽の基礎とバイオリンの指導をして欲しいと依頼があって、合宿形式で試験も実施しました。数年にわたり開催しましたが、王室が崩壊して国内情勢の悪化でストが連日行われ治安が悪くなり、自動車は通行できなくなり私たちも空港から徒歩やレンタル自転車でホテルに1時間以上歩いて、出向いたこともありました。市内の主要道路にはバリケードが置かれてミニ戦車まで出現しました。

  私たちはホテルでなくて、多くの場合学校の理事長宅や生徒の家にホームスティーをしましたが、とにかく停電ばかりで、もちろん電化製品はどこの家にも扇風機ぐらいで、エアコンも冷蔵庫も必要ない状態でした。 しかし1月の2週間ほどの寒さはとても厳しく感じました。実際の気温は1度ぐらいですが、ほとんどの家が夏の暑さを考えて建てられている関係で、窓は風通しが良くできていて冬でも外の外気がそのまま室内へと入ってきます。私は一度電気毛布を持って行きましたが、夜中に停電してしまい朝は震える事態でした。 一番困ったのは、朝昼晩のカレー尽くしの料理です。3日目には毎回のように町なかの日本料理屋にお駆け込み、2,3日遅れの新聞を見ながら日本食を食べる生活でした。またヒンズー教では牛は神聖な生き物でありビーフは食べません。よってビーフカレーもビーフバーガー、ビーフステーキ、牛丼も有りません。ある日、私のリクエストでビーフカレーがホムステイー先で夕食に出ました。喜んで食べたもののかたい肉でした。よく説明を聞くと農耕用の水牛の肉でした。現地では水牛は死んだ人を乗せる葬式にも使われるそうです。菅原道真は死んだときに牛にひかれて、住んでいたところから彼の遺体を乗せて牛が止まった所が菅原大社となっているそうですが。問題はその翌日から便が出なくなって、5日後に現地の方々が心配して救急車で病院に運ばれる事態となりました。病院は日本のODAで建設されていた関係で、順番待ちをしている多くの患者の中、救急で浣腸をされて、わずか数分で退院となりました。帰国後に日本の病院でその様子を話したところ「それは動物にする浣腸の方法だね。珍しい体験をされましたね。」と笑いながら一言。

  およそ20年間に18回もネパールに出かけて、沢山のネパールの子供たちや指導者たちに音楽の指導をしましたが、日本からも毎回何名もの小中学生を同行して、彼女らにアジアの現実を体感してもらいました。 私も多くのカルチャーショックを受けながら良い勉強をさせてもらいました。訪問が10回を超すころには子供たちも多くの曲を弾くようになって、アジア各国やヨーロッパの指導者も応援してくれました。中でも2010年の上海万博では、予定していた会場が使えずネパール館の庭で2日間コンサートを開催できたことは、長いネパールの方々との交流があったからこそだと思います。ネパールの経験だけで1冊の本が書けるほどのハプニングや出会いがあり、その後のヒマラヤ青少年オーケストラの卒業生達の人生に大きな影響を与えたことは間違い有りません。特にオーケストラの中心だったメンバーの多くは海外に留学し、現地で国際結婚をしています。また数人は女医になってネパールで活動をしています。今後のネパールの音楽から目が離せません。 

  およそ20年間に18回もネパールに出かけて、沢山のネパールの子供たちや指導者たちに音楽の指導をしましたが、日本からも毎回何名もの小中学生を同行して、彼女らにアジアの現実を体感してもらいました。 私も多くのカルチャーショックを受けながら良い勉強をさせてもらいました。訪問が10回を超すころには子供たちも多くの曲を弾くようになって、アジア各国やヨーロッパの指導者も応援してくれました。中でも2010年の上海万博では、予定していた会場が使えずネパール館の庭で2日間コンサートを開催できたことは、長いネパールの方々との交流があったからこそだと思います。ネパールの経験だけで1冊の本が書けるほどのハプニングや出会いがあり、その後のヒマラヤ青少年オーケストラの卒業生達の人生に大きな影響を与えたことは間違い有りません。特にオーケストラの中心だったメンバーの多くは海外に留学し、現地で国際結婚をしています。また数人は女医になってネパールで活動をしています。今後のネパールの音楽から目が離せません。 


新居浜Jr.今治Jr.松山Jr.そして地元の新居浜西高等学校吹奏楽部も共演してくれました。

タイ、カンボジア、フィリピン、インド、日本(群馬・北海道・愛媛)の指導者が集まりました。

8年ぶりの再会バンコクに何度も来ているメンバーたちも連日ナイトマーケット、寺院訪問、ゾウさん乗りに出かけ ウィーンから参加した佐藤君も17歳(ウイーンへ留学して8年目)、成長が止まりません。(写真はタイ人)
   



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